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東京地方裁判所 平成5年(合わ)201号 判決 1995年12月19日

主文

被告人を懲役一一年に処する。

未決勾留日数中六五〇日を右刑に算入する。

訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

(犯行に至る経緯等)

一  被告人は、昭和五〇年四月から乙大学医学部附属動物実験施設(以下「動物実験施設」と略称する。)に技術補佐員として勤務し、同年七月からは文部技官行政職([1])として、実験動物の検疫、健康管理等の職務に従事していたものであるが、獣医師の免許を有していたことなどから、動物実験施設に勤務して間もなくA教授(省略)及びB助手(省略)の下でマイコプラズマ(細胞壁を持たないバクテリア)の研究を補助するようになり、マイコプラズマの培養液を作る仕事にも従事し、その際培養液中の雑菌の繁殖を抑えるため酢酸タリウムを水溶液にして使用していた。被告人は、右B助手の後任であるC講師(省略)及び同人の後任であるD助教授(省略)もまたマイコプラズマ研究に携わっていたことから、その後もマイコプラズマ培養液の作成に従事し、A教授が退官し、後任の同施設長にE教授が就任した平成二年四月以降は、同培養液作成に使用する酢酸タリウムの注文、受領、管理は被告人が行っていた。

なお、動物実験施設の職員は時期によって変動があるものの、補佐員を含め約一三名であり、そのうち正規の職員は、施設長及び助教授(又は、講師若しくは助手)のほか、事務官一名、技官二名(被告人及び本件被害者X)の五名であった。

二  他方、被害者X(省略)は、昭和五一年一一月から文部技官行政職([2])として動物実験施設に勤務し、犬等の飼育管理を担当していた。

三  被告人とXとは職制上は同僚の関係にあったが、被告人は大学を卒業し、獣医師の免許を有していた上勤務歴も長いことから、現場における実験動物の管理の責任者的な立場にあり、そのこともあって、被告人は、技官であるXに対しても上司のような態度をとっていた。それでも、当初はXと普通に接していたが、昭和五五、六年ころ、動物実験施設内で盗難事件が相次いだ際、被告人はXを犯人であると思い込み、右事件を契機にXを嫌うようになった。さらに、そのころから、Xが勤務時間中に動物実験施設の電話機を使用して中古車販売の仲介をし、また同人の仕事が雑で実験者等から度々被告人に苦情が持ち込まれたため、Xに再三注意したにもかかわらず、同人が被告人の注意を無視してこれを改めようとしなかったことから、真に必要なとき以外はXと全く口を利かず、その頭文字をとって同人を「エヌっころ」と呼ぶなど、同人を激しく嫌悪するようになった。

四  このように被告人とXとはいわゆる犬猿の仲というべき状態になり、被告人は、Xの執務室の電話機のコードを引き抜いて隠したりしたほか、脱毛作用のある酢酸タリウムを使用して同人をはげにしてやろうと考え、昭和六〇年ころから同六三年ころにかけ、三度にわたり同人が使用するタオルに酢酸タリウムの水溶液を振り掛けたが、いずれも同人が気付くなどして失敗した。被告人は、右行為について前記Cが被告人の仕業ではないかと詰問したのに対しこれを否定する一方、他の職員にはXが自分でやったのだろうなどと話していた。また、平成二年一月ころからXの配置換えを画策したこともあったが実現せず、被告人は、同年四月前記Eが施設長に着任してからXがますます増長した態度をとるようになったと感じ、同月中旬、同人が同室の職員と休暇をとって旅行に出掛けた際、Xが使用するポットに入ったコーヒー豆に酢酸タリウムの粉末を振り掛けたが、同人が異常に気付き、大事には至らなかった。さらに、同月二三日には、動物実験施設の職員による月例会議(以下「月例会議」という。)の席上で、被告人とXとが互いに相手が仕事をきちんとやっていないなどと激しく口論をしたこともあった。その後、同年九月ころから、Xが、事務主任が出席簿上被告人等を有利に扱っているとして度々施設長である右Eに訴えたため、事務主任が右Eから注意を受け、同年一一月五日の月例会議でも全職員が右Eから職務を厳正に行うよう注意をされたことから、被告人は、X自身も同じように利益を受けていたのに何を言うかとXの態度に憤慨した。

(罪となるべき事実)

被告人は、右のように長年にわたりXと反目し、再三種々の加害行為やXの排除を試みたものの成功せず、同人に対する激しい嫌悪の念を抱いていたところ、平成二年一二月一二日ころの午前一一時ころ、動物実験施設において、自室(W三〇二号室)に戻る際Xが他の四名の職員と共同で使用していた隣室(W三〇三号室)で一人で飲物を飲んでいるのを見かけるとともに、その直後、Xが館内放送で呼び出されて同室を出ていったのを知り、Xに酢酸タリウムを摂取させる絶好の機会であると考え、W三〇二号室の向かいにあるE三〇二号室に入り、同所に保管してあった二五グラム入りの新品の酢酸タリウムの瓶を開封して水道水約五ミリリットルを入れ、瓶を振って酢酸タリウムを溶かしながらW三〇三号室に入り、同所において、殺意をもって、右酢酸タリウム水溶液約五ミリリットルをXが飲んでいたマグカップ内のお茶に混入し、そのころ情を知らない同人をしてこれを飲用させ、よって、平成三年二月一四日午後五時五九分、丙病院において、同人をタリウム中毒により死亡させて殺害したものである。

(証拠の標目)<省略>

(事実認定に関する説明)

弁護人は、被告人は酢酸タリウムに脱毛作用があることは知っていたが、酢酸タリウムに人を死亡させるような強い毒性があることは知らなかったもので、被告人には殺意がない旨主張し、被告人も公判廷においてこれに沿う供述をしているので、以下、殺意を認定した理由を説明する。

一  酢酸タリウムの毒性及びお茶への混入量等

1  タリウムは重金属の一種(原子番号八一)で、中毒症状は、慢性中毒では主に脱毛であるが、急性中毒では急激に末梢神経症状、腹部症状、中枢神経症状、脱毛等が発現して一ないし二週間以内に症状がピークに達し、死亡することもある。人の致死量は体重六〇キログラムで約一グラムとされている。また、酢酸タリウムは白色結晶で酸臭があるが、その水溶液は、無色無臭かつほとんど無味である。酢酸タリウム及びこれを含有する製剤は、毒物及び劇物取締法上の劇物に指定され(同法二条二項、別表第二第九四号、毒物及び劇物指定令二条三〇号の三)、同法一二条により劇物である旨を表示すべきものとされている。

2  水にとかした酢酸タリウムをお茶に混入した後瓶に残った酢酸タリウムの状態に関する被告人の捜査段階における供述と酢酸タリウムの溶解実験の結果(省略)とを対比すると、前記認定のとおり被告人が酢酸タリウムの瓶に入れた水の量は約五ミリリットルと認められるが、右溶解実験結果によれば、その場合には、被告人がお茶に混入した酢酸タリウムの量は九ないし一〇グラム程度と推認され、致死量の一〇倍近い酢酸タリウムがお茶に混入されたことになる(なお、被告人は公判廷では約一〇ミリリットルの水を入れた旨供述しており、右供述を前提とすると瓶に入っていた約二五グラムの酢酸タリウムのほとんどがお茶に混入されたことになるが、いずれにしても、被告人がお茶に混入する酢酸タリウムの量を加減しようとした形跡はうかがわれないから、水の量が五ミリリットルか一〇ミリリットルかは殺意の認定に何ら影響しない。)。ただし、Fの証言及び同人から聴取した結果(省略)によれば、このような大量の酢酸タリウムを摂取した場合には長期間の生存は不可能であり、それにもかかわらずXが約二箇月もの期間生存することができた理由としては、同人が酢酸タリウムが混入されたお茶を全部は飲まなかった可能性又は早期に嘔吐、下痢等によりかなりの量のタリウムが排泄された可能性が考えられる。

二  被告人の酢酸タリウムの毒性に関する認識

1  被告人が扱っていた酢酸タリウムの瓶のラベルには「医薬用外劇物」との記載があり、本件当時酢酸タリウムが劇物であることを知っていたことは被告人も自認するところであるが、被告人は、公判廷においては、酢酸タリウムに脱毛作用があることとそれが劇物であることを認識していたにすぎないとして、酢酸タリウムが致死性を有することの認識を否定している。しかし、被告人と同様酢酸タリウムを使用していた前記Dは、酢酸タリウムについて雑菌の増殖を阻止する効果があるということぐらいしか知らなかったとしつつも、劇物であることを理由に、わずかな量をなめるくらいならともかく、それ以上の量を口にすることはできない、場合によっては死んでしまうかもしれない旨証言しており、前記Cも、頭髪が抜けるということくらいしか知らなかったとしつつも、劇薬扱いであるから量を過ごせば死ぬということは容易に察しがつくと証言しているのであって、これらの証言は劇物を摂取することの危険性についての極めて常識的な感覚を述べたものということができ、その程度の認識すら否定する被告人の公判廷における供述は、それ自体不合理であって、信用し難い。

2  ところで、かつて被告人の同僚であったGは、被告人から、「アガサの中にタリウムを使った殺人事件があるのを知ってる。」と尋ねられたり、「コーヒーなんかの中にタリウムを入れると完全犯罪ができるんだよね。こんな施設だったら簡単だよね。」と言われたりしたと証言し、実際にアガサ・クリスティの作品中にタリウムを使用した殺人事件を内容とする「蒼ざめた馬」と題する推理小説がある。Gの証言によれば、同人は獣医師であり、昭和六二年五月から平成三年三月まで動物実験施設に教務補佐員として勤務し、昭和六三年九月まで被告人と同じW三〇二号室で前記Cの実験の補佐をしていたが、動物実験施設に勤務して間もなくのころ、同室の向かいの実験室(E三〇二号室)でマイコプラズマのコロニーを数えていたとき、右アガサ・クリスティの本の話を聞き、その後昭和六二年秋以降に、W三〇二号室で仕事を終えて被告人にコーヒーを入れてもらったとき、雑談の中で右完全犯罪の話を聞いたというのである。そして、Gは、平成三年に新聞記事で乙大学のある施設でタリウムで人が死亡したことを知り、その年の夏前ころ、警視庁J署の刑事から自宅へ電話があった際、それが自分がいた動物実験施設で起こったことであることを知るとともに、被告人がタリウムで完全犯罪が可能だと言っていたことを思い出したが、重要なことなので、その場で刑事に話すことなく、右C及び元警察官であった義父に電話で相談した上で、担当警察官に右事情を説明し、その後の取調べの際警察官からアガサ・クリスティの本と毒に関する本各一冊の表紙のコピーを見せられてこの本を知っているかと尋ねられ、見せられた本の題名を知らなかったのでその場では知らないと答えたが、アガサ・クリスティの名が引っ掛かり、何か記憶があると思っているうちに、帰宅後、被告人からアガサ・クリスティの本のことを聞いたことを思い出した旨、また、取調べを受ける中で潜在的な知識と相まって記憶が形成されるようなことがあってはならないので、本当はどうだったかを反復した上で警察官に述べた旨供述している。右のとおりGが右Cに警察に話すべきかどうかを相談したことは同人の証言で裏付けられており、Gの証言によれば、同人は記憶を確かめながら慎重に警察官に供述した様子がうかがわれる上、公判廷においても、記憶の有無を明確に区別して証言し、自己の記憶違いであった点は従前の供述に拘泥することなく訂正するなど、思い込みにより記憶を曲げるようなところもうかがわれないこと、供述内容が具体的である上、被告人の話の内容が特異であり、当時動物実験施設でタリウムに関する知識を有していたのは、前記A教授、右C講師のほかは被告人とGくらいであったことから、別の内容あるいは被告人以外の者の発言と混同する可能性が少ないこと、Gが殊更被告人を罪に陥れるような虚偽の証言をする理由は全くないことなどに照らすと、弁護人指摘のとおり被告人から話された時期や思い出した時期についてやや不明確な点はあるものの、自己の記憶の範囲内で正確に述べたものと認められ、右供述の信用性は高いと考えられる。

3  Gの証言に照らすと、被告人は、酢酸タリウムが劇物であり、脱毛作用があることを認識していただけでなく、タリウムが致死性を有し、しかもタリウムをコーヒー等の飲物に入れることにより自己が犯人と知られることなく人を殺害することができることを知っていたと認められる。

三  結論

被告人が、タリウムの毒性について右のような認識を有していたにもかかわらず、前記のとおり、二五グラム入りの新品の酢酸タリウムの瓶を使いながら、お茶に混入する酢酸タリウムの量を加減しようとはしていないことからすると、本件は、確定的殺意に基づく犯行であると認めるのが相当である。なお、被告人がタリウムの前記致死量を正確に知っていたことを認めるに足る証拠はないが、被告人の前記認識及び右犯行態様に照らすと、致死量についての知識の有無は確定的殺意の認定を左右するものではない。

もっとも、被告人のX殺害の動機は、同人に対する嫌悪の念にあることは判示のとおりであり、このような感情は通常殺害の動機としてやや弱いことは否めない。しかしながら、被告人のXに対する嫌悪の念は、同人に対し酢酸タリウムを使用した加害行為を繰り返し、現に飲食物であるコーヒー豆の中にまで酢酸タリウムを混入するほど、長年にわたる極めて激しいものであって、これらの加害行為が功を奏しなかったところから、直前の出勤簿の件もあって殺意を抱くに至ったとしても、必ずしも不合理とはいえない。

(法令の適用)

被告人の判示所為は、平成七年法律第九一号(刑法の一部を改正する法律)附則二条一項本文により同法による改正前の刑法一九九条に該当するところ、所定刑中有期懲役刑を選択し、その所定刑期の範囲内で被告人を懲役一一年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数中六五〇日を右刑に算入し、訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項本文により全部これを被告人に負担させることとする。

(量刑の事情)

本件は、乙大学医学部附属動物実験施設に勤務する被告人が、自分が普段実験に使用している劇物である酢酸タリウムを飲ませて同僚を殺害したという事案である。

被害者の勤務態度等に問題がなかったわけではないが、いかにXを嫌悪していたとはいえ、同人が被告人に危害を加えようとしたことがあるわけでもなく、Xを殺害してしまおうというのはあまりにも常軌を逸したものであって、もとより本件の動機に酌量の余地は全くない。人生半ばにして壮健で働き盛りの被害者の一命を奪い去った結果の極めて重大であることはもちろん、犯行の手段もまた誠に卑劣なものというほかない。被害者Xは、酢酸タリウム水溶液を飲まされて以来、約二箇月もの間、強度の神経障害、不眠等に悩まされ、苦しみに苦しんだ末変わり果てた姿で亡くなったのであり、その激しい肉体的及び精神的苦痛自体同情を禁じ得ないことはもとより、妻と二人の子供を残して死なねばならなかった被害者の無念の心情及び突如一家の支柱でありかつ子煩悩だった夫あるいは父親を失った遺族の悲嘆の心情は察するに余りあるものと言わなければならない。当公判廷で証言したXの妻が今なお強い処罰感情を抱いているのもけだし当然である。さらに、被告人は、被害者が入院した際には他の職員らに保険金目当ての自作自演ではないかと述べ、死亡後には、マスコミに対して自殺ではないかとの虚偽の情報を流すとともに、それを裏付けるための偽装工作を敢行するなど、犯行後の言動も甚だ悪質であり、強く非難されるべきである。加えて、学問の府である大学の研究施設内においてこのような犯行が敢行されたことの社会に与えた衝撃も大きく、これらの諸点にかんがみると、被告人の刑事責任は重大である。

しかしながら、他方、被告人は、本件の損害賠償金の内金として二〇〇〇万円を遺族に支払い、被告人の出所まで毎月五万円を支払う旨約していること、さらに被告人は、当公判廷において、出所後にも支払いを続けていくと供述するとともに、酢酸タリウムを飲ませたこと自体については深く反省、悔悟していること、被告人はこれまで動物実験施設において動物管理等に約一八年間従事してきたもので、前科、前歴もないこと、その他家庭の状況等被告人のためしん酌すべき諸事情も存在する。

そこで、当裁判所は、以上の諸情状を総合考慮した上、主文のとおり刑を量定した。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 金谷暁 裁判官 若園敦雄 裁判官 佐藤晋一郎)

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